■ホテルサンパレス球陽館

仁治2年(1241年)に鎌倉幕府が課した例が初出といわれる。国家的行事や寺社の造営など、臨時の支出が必要な時に地域を限定(多くは国ごと)し、臨時に課する。銭納が原則で、「田畑一反あたり何文」という形で課せられる。大田文に記載されている公田の数量に応じて課税する段銭を公田段銭(こうでんだんせん)と呼ぶ。 室町時代になると度々課せられるようになり、次第に恒常的税に変貌する。段銭が賦課された国には幕府から奉行が派遣されて徴収にあたるのが原則であるが、守護に代行させて徴収させる場合もある。ただし、奉行や守護による徴収の場合、実際には彼らが算定した賦課額に上乗せをした金額を徴収して差額を得る場合もある。そのため、公家や寺院、奉公衆・奉行衆などの室町幕府官僚集団などは、段銭免除や京都の幕府倉奉行への直接納付(京済・直進)の特権を幕府から得た。 また、守護や荘園領主なども私段銭と呼ばれる私的な段銭を徴収するようになる。各領主は段銭帳を作成し、領内で賦課する段銭の基礎資料や記録とした。後に私段銭は守護大名・戦国大名による領主的な賦課へと転換していくことになる。 京都では鎌倉時代後期から土倉・酒屋が急速に発展してきた。延暦寺に代表される有力寺院や朝廷の造酒正(押小路家)などは、こうした土倉や酒屋を支配下においてそこから税を徴収していた。 京都に成立した室町幕府は本来、御料所などからの収入に財政基盤を置いていたが、南北朝の戦いの中で南朝方によって占領されたり、自軍の武将への恩賞に宛てられるなどして次第に縮小していく傾向にあった。そこで幕府も土倉・酒屋からの徴税によって不足分を補う方針を採るようになり、軍事力による京都市中の掌握を背景に他の権門の影響力を排除しつつあった。3代将軍足利義満が在任していた応安4年(1371年)に後光厳天皇譲位のための諸経費を補うためとして京都の土倉より土倉役を徴収し、明徳4年(1393年)には「洛中辺土散在土倉并酒屋役条々」という5ヶ条からなる法令を出した。これにおいて幕府は造酒正が朝廷財政に納入する分などを例外として、諸権門が土倉・酒屋より税を徴収することを禁じ、その代償として土倉・酒屋が年間6,000貫を幕府に納税することとなった。 京都の土倉・酒屋を支配下に置いた幕府は当初は直接個々の業者より徴収を行おうとしたものの、徴収効率が悪かった。そこで、「衆中」と呼ばれていたそれぞれの業者内の有力者が責任者となって、数十軒単位で幕府に代わって徴税を行い、その収入を幕府に納付する方針に変更した。その責任者が納銭方である。納銭方には、土倉の担保用質物の員数に応じて土倉役を徴収する土倉の衆中と酒屋の醸造用酒壷の壷数に応じて酒屋役を徴収する酒屋の衆中が存在した。なお、記録上において納銭方の中に法体の姿を取って「○○坊」と名乗っている者と普通に俗名を名乗っている者が存在するが、これは土倉が本来は延暦寺などの支配下にあったため、その一員である証としてそれらの寺院に属する僧侶の体裁を取った名残であると考えられている。また、当時の土倉役・酒屋役の幕府財政における重要性を反映して、本来は幕府直轄地を指していた料所(御料所と同義)を納銭方に対して用いる例もあった。 こうした納銭方であった土倉の中には公方御倉に任じられる者も存在した。本来、幕府の財貨や文書を管理する倉奉行という役職が存在していたが、運搬の手間や安全を考えて納銭方に徴税だけではなく、幕府財政の出納実務をも特定の納銭方に一任するようになり、倉奉行は幕府に直接納付を許された特定の業者からの納税(直進)や幕府の特別会計(内裏造営経費である「造内裏棟別」など)及び小口の出納のみを扱う限定的な職務に縮小されることとなった。 ところが、6代将軍足利義教以後になると状況が変わってくることになる。まず、土一揆などによって徳政令が出されると、それによって打撃を受けた土倉を救済するために土倉役を免除しなければならなかった。その場合、納銭方からの収入が滞り、将軍の日々の生活にも影響が出る恐れも生じた。そこで、「納銭所会所」と呼ばれる一種の座を結成させて同業者間の協力組織を確立させるとともに幕府による保護・監督体制を強化して土倉や酒屋の自由な営業・廃業を規制した。また、分一徳政の導入による徳政令の手続に手数料を導入したり、新たに味噌屋や風呂屋なども対象に含めた馬上役を設定、更に納銭方に対して予定税収額を納付させた上での請負制を導入するなどの財政安定策が採られた。これによって応仁の乱直前まで、幕府の権威低下にも関わらず幕府財政は比較的安定していたといわれている。 だが、応仁の乱後には京都のFX や納税拒否の動きによって請負額に徴税額が達せずに赤字となって納銭方を辞退する者が相次いだ。これに対して幕府は「請酒」と呼ばれる小売専門の酒屋や「日銭屋」と呼ばれる高利・日歩の新興金融業者に対しても課税を行うなどして税収低下を抑制しようとするが、税収回復は困難であった。天文8年(1539年)に天文法華の乱の影響による土倉役・酒屋役の減少への対策として管領細川晴元が明徳以来度々納銭方や公方御倉を務めた延暦寺系の土倉「正実坊」による納銭方業務の請負一任(事実上の独占化)が決定されると、土倉や酒屋がこれに強く反対して幕府への直納(直進)要求するに至った。だが、晴元はこれを拒絶し、同21年(1552年)には「正実坊」と同じく老舗業者であった「玉泉坊」も納銭方の地位確認を求めて訴訟を起こしたが、敗訴した。納銭方は天正元年(1573年)の室町幕府解体とともに廃止されるが、当時の正実坊の当主であった正実坊掟運は織田信長によってそのまま徴税担当に起用されており、その仕組みは織田政権によって吸収されていったと考えられている。 「宮内省御用達」は大日本帝国憲法下において正式に許可されたものが名乗れる制度であり、その選定には厳しい審査があった。日本国憲法下においては宮内府時代を経て宮内庁ではそのような物品等購入の選定が認可制でなくなり、いわゆる「宮内庁御用達」の呼称は単に「宮内庁が購入している」という事実関係を示す(法的根拠のない)俗称に過ぎなくなった(宮内庁への御用達制度自体も1958年に廃止された)。「宮内庁」という官公庁の名称が含まれているため(仮に現実に宮内庁へ物品献上・納入等をしている場合であっても)、その俗称を根拠もなく自社製品等に表示して営利活動等に利用する行為については問題性を指摘する声もあり、また宮内庁側がそのような「宮内庁御用達に相当する業者等」のリストを公表しないこともあって、当該業者等の側でも必ずしも積極的に誇示・公表しておらず、噂が先行する結果となっている。現在は260社ほどが存在するとされる。 宮内庁御用達には2種類存在する。献上と納入である。献上は皇室に宛てて無料で送られる物、これに対しくりっく365 は官庁としての宮内庁が総務庶務部門を窓口として買う物品であり、他の中央省庁への納品と何ら変わりない。献上は無料であるが誰でも出来る訳ではない。厳正な審査を通って初めて献上されるのである(厳密には皇室への献上は国会の承認を必要とする)。皇室祝賀行事で献上される物の多くが返品される。 「宮内庁御用達」が戦前認可制であって現在それを使用する事を憚るためか、宮内庁献上(品)は日ごろよく食品等に付く事がある。また宮中に招かれた祝賀参列者に飲食を賜わる祝宴料理、「賜饌料理」(紀文食品など)等もある。因みにキムラヤのあんパン(明治天皇も食していた)も戦前献上されている。納入は更に難しくそして公表もされにくい。祝賀行事にて使用されている品を丹念に調べて予想する。よってテレビのワイドショー等で発表されて初めて分かるのである。 現在、従来から名乗っている業者を罰する規則がないため宮内庁では取り締まることはできないが悪質な場合は注意する事もある。 納入業者については、毒物混合や食中毒を防止するために厳しい選定が行われ、警察庁(公安警察)を通しての社員の思想調査や保健所を通しての検便などが頻繁に行われる。 なお、品物としての本来のステータスは皇室御用達または「―御用」である。“質素を旨とする”とされてはいるものの、その品位を保つ為に天皇皇后・皇族の使用品には全て日本一の最高級品が用いられている事は論を待たない。 イギリスの王室御用達は許可制である。許可を得た製品には王室御用達を示す紋章をつけることができる。現在800の企業と個人に与えられている。洋食器のウェッジウッド、紅茶のトワイニング、アパレルのバーバリーが有名。