■女性専用ゲストハウスあんまーや

室町時代から江戸初期までの社会用語としては、神社勢力が強訴などの要求を行うための武力である僧衆(江戸時代に僧兵と呼ばれる)も含め、中央もしくは地方政権から非公認の武装勢力そのもの、もしくはそれらが何らかの主張のもと既成の支配体制に対して武力行使を含む抵抗運動を展開している状態を指し、室町時代のそれを国一揆(くにいっき)と言う。 通説的には惣領制が崩壊し、庶子家が独自の動きを取り始めると一族一揆を結ぶことで庶子家との繋がりを維持したが、やがて地縁による国人一揆へと発展したと言われるが、必ずしもそのように単純に移行した訳ではない。 一般的には血統的正統性や圧倒的な武力を持つリーダーが存在せず「連判状」はんせいに代表される一揆契状に見られるように、局地的には全参加者が平等で民主的な合議制の場合が多く、それ故に迅速で統一的リーダーシップが存在せず、大部分は一時強勢を誇っても内部分裂等で弱体化し、個別に撃破されるケースがほとんどであった。しかし、中には守護など上位者が、地域の中小武士に斡旋して一揆を組織させ、実質上の家臣団として編成する例も見られる。 南北朝時代から室町時代には、関東地方で武蔵七党など中小武士団による白旗一揆、平一揆などの国人一揆が盛んに結ばれる。やがて同属集団である国人一揆から地域集団である国一揆へと主体が移り変わる。国一揆は山城の国一揆、伊賀惣国一揆、甲賀郡中惣など畿内に集中する。加賀国(石川県)では、室町時代に応仁の乱で東軍に属した守護の富樫氏を追放し、戦国時代まで百年近くに亘って一揆勢が共和国的な体制を維持していた最大にして唯一の成功例とも言える。この場合も周辺諸国の事情がそれを許しただけであり、現に事情が変われば瞬く間に内部分裂が起こり、織田信長と対立して敗北した。 江戸時代には幕府が一揆を禁止し1637年の島原の乱以降は一揆は沈静化し、先物取引 や逃散など百姓一揆と呼ばれる闘争の形態が主流となる。百姓一揆の闘争形態の分類として、代表越訴、惣百姓一揆、村方騒動、国訴などがあげられる。江戸時代後期の天明年間、天保年間には再び広域の一揆が多発する。幕末には世直し一揆、明治には新政府の政策に反対する徴兵令反対一揆や解放令反対一揆、地租改正反対一揆が起こる。 用語としては鎌倉時代から南北朝時代より見られ、鎌倉時代後期から出現した自らの既得権益を守るために権力と戦う悪党や、南北朝時代の社会的風潮であった「ばさら」も下剋上の一種とされた。足利尊氏は1336年に制定した幕府の施政方針を示した政綱である「建武式目」にてばさらを禁止している。 「下剋上する成出者」と二条河原の落書に唄われ戦国時代の社会的風潮を象徴する言葉ともされる。公家は武家に、将軍は管領に、守護は守護代にと下位の者に実権を奪われ、こうした状況を下剋上と理解するのが、当時のほぼ一般的な観念だった。また、一族衆が宗家の地位を奪って戦国大名化する例は枚挙にいとまがないほどであり、例えば、島津忠良・南部晴政・里見義堯らの事例がある。 下剋上を鎌倉期から武家社会に見られた主君押込め慣行として理解する見解もある。中世の武家社会において、主君は家臣にとって必ずしも絶対的な存在ではなく、主君と家臣団は相互に依存・協力しあう運命共同体であった。そのため、家臣団の意向を無視する主君は、しばしば家臣団の衆議によって廃立され、時には家臣団の有力者が衆議に基づいて新たな主君となることもあった。こうした傾向は室町期に顕著となり、赤松氏による将軍足利義教の殺害(嘉吉の変)、細川政元による将軍足利義材の廃立(明応の政変)、松永久秀による将軍足利義輝の殺害は、いずれも将軍家に対する主君押込めとして理解することが可能である。またその他、河内守護家畠山氏や管領家細川氏では守護代による主君廃立がたびたび行われ、陶晴賢による大内義隆の追放・討滅、武田晴信による父武田信虎の追放なども主君押込めの一例とされている。 このように、戦国期の流動的な権力状況の中心原理を、下剋上ではなく、主君押込めによって捉え直す考えが次第に主流となっている。戦国大名による領国支配は決して専制的なものではなく、家臣団の衆議・意向を汲み取っていた。その観点からすると、戦国期の大名領国制は戦国大名と家臣団の協同連帯によって成立したと見ることもできる。家臣団の衆議・意向を無視あるいは軽視した主君は、廃立の憂き目に遭い、世間から下剋上と評されたのである。なお、豊臣秀吉政権の確立以降、こうした主君押込めは沈静化し、少なくとも徳川将軍家では見られなくなったが、各大名では比較的頻繁に行われていた。 (倹地と書かれる場合もある) 律令制下、全ての農地の所有権は国家が持っていることになっていた。しかし、平安時代になると公地公民は崩れ、荘園と呼ばれる私有地の存在が認められるようになる。そのため、各地は国府が管理する国衙領と私有地である荘園にほぼ二分される。国衙領については国府が大田文と呼ばれる台帳を作成し、農地の面積や収量を把握し、徴税の基礎資料としていた。しかし、荘園に関しては、課税のための調査も課税もできない。この状態は鎌倉・室町時代になっても変わらなかった。室町・戦国の混乱時代、農業生産高は爆発的に増加したが、各地にモザイクのように存在する割拠勢力はそれぞれ消長を繰り返し、また支配下にも多くの自立領主がいるため、自領の実質総農業生産高を把握するのも困難であった。 しかし、戦乱を経て地方に荘園やFX 領という枠を超えた一円に支配権を確立する戦国大名が成長する。彼らは、自分の支配地域における課税を行うための資料として土地の調査を行った。これが検地である。しかし、多くの戦国大名は全領地に検地を行うことができなかった。多くは新規に獲得した領地に対して行っている。それは家臣団や有力一族の抵抗が大きいからである。 急速に勢力を拡大した織田信長もその領国内でこの検地を行い、農業生産高とそれに基づく課税台帳の整備に力を入れた。信長死後その政権を引き継いだ豊臣秀吉は初めて全国的に検地(太閤検地)を実施した。しかし、この検地も実際に豊臣氏の家臣が直接行ったものではなく、多くは大名の自己申告制であった。これにより全国的に石高制が認知されるようになる。また、太閤検地が画期的なのは、土地の所有者ではなく、耕作者を調査し、耕作者に課税したことである。これにより、土地に対して重層的にあった中世的な中間権利である様々な職が否定され、耕作者は直接領主に納税することとなり、農村にいた中間搾取者としての武士はほぼ一掃されることとなった。 続く江戸時代は、農業技術の進歩と新田開発の進展、幕府や藩の財政悪化などによりたびたび検地が行われた。検地により農民への課税は重くなる傾向が強いため、農民も一揆などでそれを阻止しようと試みることもあった。 明治政府は、農業収入に課税する年貢制ではなく、全土地に課税する地租を導入し、検地は行わなくなった。 豊臣秀吉は、1582年から検地を行っており、1591年に関白位を豊臣秀次に譲るまでは太閤(たいこう)ではなかったが、1591年以降は秀吉自身が「太閤」の称号を好んで使用したこともあり、1591年以前の検地も含めて「太閤検地」と言う。これを企画発案したのは石田三成で、検地奉行として事実上の施行者となった。 秀吉は、各地を征服するごとに検地を行い、征服地を確実に把握して全国統一の基礎とした。また、太閤検地では全国的な規模で統一された方法で行われ、それまでの複雑な土地所有関係を整理し、土地制度を一新した。これにより、荘園制度は完全に崩壊することとなる。さらに、物差し、升を統一して行われたため、度量衡の統一がなされた。この太閤検地の実施により兵糧を絶やすことなく小田原城を約20万の兵で囲み、北条氏を滅亡させた(小田原の役)のは有名な話である。 太閤検地によって、各地の石高が確定されたことは、その後江戸時代の幕藩体制の基礎となる石高制のもととなり、江戸時代においてもこれに倣って検地が行われた。 これ以前にも、織田信長によって大規模な検地(指出検地とも呼ばれる)が行われており、太閤検地の原型になったといわれている(一部の者はこれを「信長検地(しんちょうけんち)」と呼ぶ)。