■南風
日本史で言う藩は、江戸時代に1万石以上の領土を保有する封建領主である大名が支配した領域と、その支配機構を指す歴史用語である。江戸時代の儒学者が中国の制度をなぞらえた漢語的呼称に由来する。
藩と云う呼称は、江戸時代には公的な制度名ではなかったためこれを用いる者は一部に限られ、元禄年間以降に散見される程度だった(新井白石の『藩翰譜』、『徳川実紀』等)。明治時代にはいり公称となり、一般に広く使用されるようになった。
そもそも「藩」の語は、古代中国で天子である周の王によってある国に封建された諸侯の支配領域を指し、江戸時代の儒学者がこれになぞらえて、徳川将軍家に服属し将軍によって領地を与えられた(と観念された)大名を「諸侯」、その領国を「藩」と呼んだことに由来する。江戸時代には「藩」の語は儒学文献上の別称であって、公式の制度上は藩と称されたことは無く、「何某家中」のような呼称が用いられていた。
今日の歴史用語では藩の領主である大名のことを「藩主」、大名の家臣のことを「藩士」と言う。やはり現代歴史用語ではあるが、藩に対して幕府の直轄領のことを「天領」と呼び、代官や郡代が年貢の徴収を行った。
しかし、江戸時代には、たとえば「仙台藩士」とはほとんど言わず、公的には松平陸奥守家来(伊達家は将軍家より松平姓を賜っていた)と称された。また漢語的呼称でも、「藩士」より「惣士」と好んで呼んだ大名家も多かった。
また「藩主」より、封地名に「侯」をつけて呼び現されることが多かった。例えば「仙台侯」、「尾張侯」、「姫路侯」といった具合である。
藩の内側は将軍と江戸幕府の権威・権力の枠の内側で一定の自立した政治・経済・社会のまとまりを持ち、小さな国家のように機能した。
藩は、守護大名が荘園を解体し、各農村に所領を持つ国人級の武士や、武士化した名主層(地侍)を被官化し、一円的領域支配を築いていったことに始まる。室町時代以前の武士の所領支配とは異なった新しい支配の形態である。戦国大名は領域の一円支配をさらに推し進める一方、家臣である配下の武士を城下町に集めて強い統制下に置く傾向が始まる。織田信長は取り立てた武士の所領を勢力・進展とともに次々に動かし、豊臣秀吉は徳川家康ら服属した戦国大名を彼らの地盤である領国から鉢植え式に新領土に移封させたので、安土桃山時代に武士と百姓間の職業的・身分的な分離が進み、関ヶ原の戦いと江戸時代初期の大大名の盛んな加増・移封によって完成された。
藩士である武士を城下町に集めて軍人・官吏とし、彼らの
外為
のもとで城下町周辺の一円支配領域にある村に石高を登録された百姓から年貢を現物徴収して、藩と藩主の財源や藩士の給与として分配する形態が藩の典型であるが、徳川氏によって新規に取り立てられた小藩の中には支配する領地が飛び地状に拡散していて一円的な支配が難しいものもあった。
1868年に明治新政府が旧幕府領を天皇直轄領(天領)として府・県に編成した際に、大名領は天子たる天皇の「藩」であると観念されたこともあり、「藩」は新たに大名領の公称として採用され、藩主の居所(城持ち大名の場合は居城)の所在地の地名をもって「何某藩」という名前が正式の行政区分名となった(府藩県三治制)。翌1869年までに版籍奉還が行われて藩主は知藩事に改められ、1871年の廃藩置県によりさらに藩が県に置き換えられた。これによって江戸時代以来の藩制は廃止され、藩領は整理された。
なお琉球は、その実質的な支配者である薩摩藩が廃藩置県によって県となったことを受け、翌1872年、独立王国から日本国に帰属する琉球藩へと改められた。以後1879年の琉球処分まで、琉球は廃藩置県後の日本国内において唯一藩制が行われていた地域である。
現在の県は廃藩置県時の諸県を統廃合して生まれたものだが、国主の格式を持っていた大藩の場合はかつての藩の領域と現在の県の領域がほぼ一致する場合がごく稀にある。
古代中国の周で、王室を護衛する諸侯を藩と呼んだのが由来とされる。転じて、
不動産
を冊封された諸侯一般、およびその領地を指すようになった。領地のことは藩国とも呼ぶ(蕃国とも)。
藩という語は漢代〜清代に使われたが、日本のように固有名詞として「○○藩」のように使われることはほとんどない。
清代の、辺境の半独立国だった三藩が有名。
石盛(こくもり)とは、検地における田畠屋敷の法定の段あたりの見積生産高(斗代)のこと。これに基づいて全体の石高を算定した。ただし、本来は斗代・石高の算出についてを指していた。
時代によって基準は違うものの、生産高など田畠の優劣に応じて上田・中田・下田を基本としてその上に上々田、その下に下々田という等級を設置するのが通例であった。
太閤検地においては、上田を1石5斗、
FX
を1石3斗、下田を1石1斗としてランクが1つ落ちるごとに2斗ずつ下げる方法(2斗下り)が採用され、屋敷地は1石2斗を基準とすること、下々田・畠・河原などについては「見計い」とされ、検地担当者の裁量によるものとされた。江戸時代には、下々田は9斗、畠は上畠を1石2斗として2斗下りする方法が採用されている。
ある田畠の中でランダムに数ヶ所を選んで付近1坪を収穫してその平均収穫高を算出する。もし、平均の稲籾の収穫高が1坪あたり1升とすれば、1段(330坪)あたり換算で3石(30斗=300升)となる。5分摺りで脱穀をした場合、玄米の量は半分の1石5斗になると算定できるため、「1石5斗代」すなわち1段あたり1石5斗ということになり、「上田」に相当することになる。また、大名によっては干減引2割を行って、収穫高を2割減で算定(3石を2割引の2石4斗に修正して、最終的に「1石2斗代」と算出)する方法を用いる藩もあった。
もっとも、検地における土地の評価は担当者の判断に依拠するところが大きく、街道沿いなどの商工業が盛んな地域の田畠では高く見積もられ、政治的・軍事的要地や僻地では民心掌握のために低く見積もられ事があった。これが農民から見ると賦課の不公平にも見られ、時には農民一揆の原因になることもあった。
江戸時代中期頃には、条件に関わらず一律の石盛が採用されるようになり、干減引が廃されて屋敷地と上畠を下田の石盛1石1斗に揃え、畠についてはそこから2斗下りする方法が採用されるようになった。だが、農地の生産力向上に伴い、石盛の算定額より実際の収穫量が上回る事が多くなっていくが、算出方法はほぼそのまま明治の地租改正まで引き継がれている。
なお、検地による石盛の修正があった場合、石盛の増加分を石盛出目(こくもりでめ)、減少分を石盛違引(こくもりちがいびき)と称し、土地の名目が上昇(畠→田)を石間出石(こくましゅっこく)、反対に下落(田→畠)を石間引(こくまびき)と称した。
石高(こくだか)とは、近世の日本において、土地の生産性を石という単位で表したもの。太閤検地以降、地租改正まで石高に応じた課税が行われた。そこから転じて大名や旗本の収入も示した。
太閤検地以後江戸時代を通じて、田畑や屋敷などの土地の価値に至るまで、面積に石盛という一定の計数をかけて米の生産力に換算して石単位で表示するようになった。このような制度を石高制と言い、米以外の農作物や海産物の生産量も、米の生産量に換算されて表された。大名をはじめとする武士の所領からの収入や俸禄を表す場合も石高を用いられた。特に領民の場合には「百姓高所持」、武士(特に大名)の場合には「石高知行制」と称されることがある。明治時代の地租改正まで続いた。
一石は大人一人が一年に食べる米の量に相当することから、これを兵士たちに与える報酬とみなせば、石高×年貢率と同じだけの兵士を養えることになる。つまり石高は戦国大名の財力だけではなく兵力をも意味していた。江戸時代の軍役令によると、大名は幕府の命に応じて表高1万石あたり概ね2百人程度の軍勢(非戦闘員を含む)を動員する義務を課せられていた。
これらは、あくまで幕府公称の数字(表高)であり、実際の収穫高である内高とは、かなりの乖離がある藩も多い。詳細は内高を参照のこと。