■ブセナテラス

1897年に松方内閣が地租を60%引き上げる(2.5%→4%)地租増徴案を提出しようとした。ところが、松方内閣の与党であった進歩党が野党自由党と結んでこれに反対したために、翌1898年に入ると内閣総辞職に追い込まれ、続く伊藤内閣も同じ運命を辿った。その間にこれと並行して渋沢栄一や田口卯吉が商工業者に対する営業税などの税率の高さに対して地租の税率は低すぎるとして増徴を支持する意見を唱え、これに元農商務大臣である保守派の谷干城が反論を唱え、双方とも地租問題を取り上げる団体を結成するなど世論も大きく割れることになった。これと並行して2回の総選挙(第5回・第6回)を行なわれ、2度とも地租増徴反対陣営が勝利を収めた。しかも、進歩党と自由党の合同によって憲政党が結成されたのを受けて、憲政党の大隈内閣が成立してしまい、地租増徴案は一度は廃止されたのである。ところが、憲政党は内部分裂でわずか2ヶ月で自由党系憲政党と進歩党系憲政本党に分裂して内閣も倒れたのである。 その後を継いだ山縣内閣は、自由党系憲政党との妥協を探り、山縣有朋首相と憲政党の指導者・星亨が会談を持った。その結果、地価軽減方式の流れを汲む地価計算方法の見直しによる地域間格差の是正と1899年度からの5年間限定にすることを条件に地租の32%引上げ(2.5%→3.3%)にすることで合意、これによって1899年4月より5年間限定で地租が3.3%(市街地では5%)に引き上げられることになったのである。 この結果、本来であれば1903年度の終わる1904年4月1日には税率に元に戻す予定になっていた。ところがその直前の1904年2月に日露戦争が勃発し、戦費調達のための非常特別税法が成立すると、4月1日に3.3%から2.5%に戻すところを逆に4.3%(市街地では8%、郡部宅地では6%)に引き上げられ、更に1905年1月1日からは5.5%(市街地では20%、郡部宅地では8%)に再度引き上げられたのである。臨時特別税法は平和回復の翌年までという条件が付けられていたが、ポーツマス条約締結の翌年である1906年に廃止期限直前に臨時特別税法からこの規定を無くすことに成功して、事実上の恒久税制化されようとしたのである。 だが、こうしたなし崩し的な恒久税化に対する批判が強まり、1910年3月25日に減税規定が公布されて田畑4.7%(宅地は2.5%・その他5.5%)とされ、1914年には田畑は再度4.5%に引き下げられた。この頃より、地租が国税に占める割合が急速に低下して酒造税、続いて所得税(当時は法人税と未分化)が地租に替わって歳入の主要を占めるようになる。また、地方財政の拡大によって地租付加税が地租本税よりも高いという逆転現象が各地で発生していた。このため、地租を地方税に移す両税委譲が議論の俎上に上るようになった。この時には地方税化はされなかったが、1931年3月31日地租法(法律26条)が公布され、翌4月1日より施行した。 これによって、地租は地価ではなく土地台帳に記載された賃貸価格を基準として、一律に3.8%がかけられることになった(ただし、移行措置として1931年度は4%)。1940年に税率は2%とされるとともに国税でありながらその税収全額が府県に還付される府県還付税となった。そのご、戦局の悪化、戦後の経済混乱によって1944年に3%、1946年に4%に税率が引き上げられている。 1947年3月31日に地租法は廃止されて、地租は地方税への移譲された。その後、シャウプ勧告に基づく税制改正によって1950年7月31日に新たに地方税法が制定されて同日に地租は廃止され、代わりに固定資産税が新設されることとなった。 地租の由来は、大化の改新により成立した律令国家が、くりっく365 に倣って採用した租税制度である「租庸調」のうちの「租」にさかのぼる。ここでいう租とは、田畑(口分田)の収益を課税物件とした租税である。明治以前には田租(たそ)・貢租(こうそ)などと呼ばれていた。 豊臣秀吉の行った太閤検地により、土地の生産力を石高(玄米の生産量)であらわし、その石高に応じて年貢を課すこととされた。また、検地帳に土地の直接耕作者を登録し、その者を租税負担の責任者とした。 地租は収穫量を今日でいう課税標準とし、直接に耕作者である百姓からその生産物をもって徴収された(物納)。なお、この納入は村請により村単位で一括して行われた。 明治初期から大蔵省や民部省では、全ての土地に賦課して日経225 の額を金納させる新しい税制である地租の導入が検討されていた。また、神田孝平も、1870年(明治3年)に「田租改革建議」を提出して各藩ごとの税の不均衡を正して公正な税制にするための貢租改革が提案されていた。だが、土地の賦課の是非は大名などの領主の権限と考えられていたこと、従来の検地に代わる大規模な測量の必要性があることから、政府内でも賛否両論があってまとまらなかった。だが、、1871年(明治4年)に廃藩置県が行われると、日本からは領主が一掃される形となり、反対論の大きな理由が失われた。同年9月「地所売買放禁分一収税施設之儀正院伺」が大蔵省によって作成され、田畠永代売買禁止令の廃止とともに地租改正の実施が明治政府の方針として正式に決定されその準備が急がれたのである。 1873年(明治6年)7月28日に地租改正法(上諭と地代の3%を地租とする旨を記載した1ヶ条で構成)と具体的な規定を定めた地租改正条例などから成る太政官布告第272号[1]が制定され、明治政府は翌年1874年(明治7年)から地租改正に着手した。 政府は当初、検地が農民からの反発を受けることを懸念し、農民からの自己申告主義を採った。すなわち、農民自らが地押丈量を行い、面積・収量を算出し、地方庁は地方官心得書の検査例に基づいて点検し、これを経て地方庁が地券(改正地券)を発行するかたちをとった。しかしこの方法では、全国一律公平の租税を徴収する目的は達しがたく、また、1874年(明治7年)の改租結果から、目標の租税額が確保できそうにないことが明らかとなった。また、政府高官間の政争の産物である「大蔵省分割問題」も影を落としていた(内務省設置による測量機構と税額算定機構の分離)。 このため政府は、、1875年(明治8年)にCFD 及び大蔵省の両省間に地租改正事務局を設置し、これを中心として改租を強力に進めるよう方針転換した(明治8年太政官達第38号)[2]。 このなかで、府県庁は地租改正事務局があらかじめ見当をつけた平均反収を絶対的な査定条件とし、申告額がこれに達しない場合は、農民が自らの労力と費用をかけて算定した地価を否定し強圧的に変更させたことから、伊勢暴動をはじめとした大規模な暴動が各地で頻発した。これをうけて政府は、1877年(明治10年)1月に、地租を100分の3から100分の2.5に減額することを決定した。 その後政府の強硬姿勢は、1878年(明治11年)頃まで続いたが、税収の見込みがつくようになると徐々に緩和されていき、1880年(明治13年)に耕地宅地の改正作業が完了した。この地租改正は約7年にわたる大事業であった。 前述のとおり、江戸時代までの貢租は米による物納制度であり、あくまで生産者が納税義務者であった。また、その制度は全国で統一したものではなく、地域毎に違いがあった。このような制度を、地租改正により、土地の価値に見合った金銭を所有者に納めさせる全国統一の課税制度に改めたのである。 新地租の要点としては以下の点が挙げられる。