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税率は種類・品目別に、担税力に応じてきめ細かく設定されている。一般に、アルコール分が高いほど税率は高くなる。清酒ならアルコール分が22度未満で、1キロ・リットル当たり120,000円。2006年以前は、アルコール分1度毎に酒税率が上下していたが、2006年より酒税率の均一化が施行された。焼酎ならアルコール分が25度で、1キロ・リットル当たり250,000円。アルコール分が25度より1度上がるごとに10,000円高くなり、1度下がるごとに10,000円低くなる。
しかし一方で、ビールや果実酒(果実酒類・果実酒)のようにアルコール分にかかわらず定額のものもある。1キロ・リットル当たりビールは222,000円で、果実酒は70,472円と定められている。
上記の通り、ビールの酒税がアルコール分の割りに突出して高く設定されており、国民の健康を考える上ではビールを始めとしたローアルコール飲料の酒税をもっと優遇すべきではないかとの意見が根強い。また、その偏った税制のため、発泡酒や第3のビールといったカテゴリが生まれている。
日本において、酒類に関する課税は中世の頃から「壷銭」・「酒役(酒屋役)」・「麹役」として行われてきた。
江戸幕府では、酒造統制のために当初は酒株制度を導入していたが、1697年(元禄10年)、幕府が税収のさらなる向上を企図して、造り酒屋に対して現行の酒価格の五割もの酒運上(さけうんじょう)と呼ばれる運上金を課すことにした。ここでいう運上金とは、今でいえば「造り酒屋の営業税」と「酒株」という「免許」の発行手数料などのことである。ところが、酒屋たちが生産を控えるようになったため、はじめ幕府が期待したような税収は得られなかった。生産量が減って酒の値段は高騰したが、それで下々の者が飲酒をしなくなるかというと、そういう結果も出なかった。このため運上金は1709年(宝永6年)に廃止された。ただし、以後も冥加金として復活する事になる。また各藩でも独自に酒税を定める事があった。
明治維新後、新政府は1868年に旧来の免許石数の維持を命じるとともに冥加金として造酒100石ごとに金20両を課し、翌年には鑑札冥加として造酒100石ごとに金10両、毎年の冥加として同額(ただし濁酒は毎年7両に減額)を課した。
1871年酒株と酒造統制を廃止し、代わりに免許料(清酒10両・濁酒5両)、免許税(稼人1人あたり清酒5両・濁酒1両2分)、醸造税(製酒代金に対して清酒5分・濁酒3分)を徴収した。1875年には酒類税則を定めて免許料を廃して醸造税を販売代金の1割とした。1878年には再び醸造税を造石高1石に対して清酒1円・濁酒30銭・白酒及び味醂2円・焼酎1円50銭・銘酒3円と改めた。
1880年に新たに酒造税制を制定し、初めて「酒造税(しゅぞうぜい)」という呼称を用いた。従来の税制を酒造免許税と酒造造石税(造石高1石に対して醸造酒2円・蒸留酒3円・再製酒4円)の2本立てとした。1896年には酒造税法が成立し、旧来の酒税免許税を新税である営業税に譲ってこれを廃止して酒造造石税に一本化するとともに造石高1石に対して第1種(清酒・白酒・味醂)7円、第2種(濁酒)6円、第3種(焼酎・酒精)8円と定めて長く基本原則とした。
こうした度重なる制度改正と増税の背景には、酒類が多くの人にとって必需品である事、生産量が極めて多く明治初期の統計では日本で一番生産量の多い商工業製品であった事、当時日本製の酒類が日本国外で飲まれることは皆無に近く輸出量も極僅かであったために貿易摩擦の心配がなかった事などがあげられる。また、当時地主層出身議員が多かった帝国議会が自己の税負担に関わる地租の増徴には反対であったが、利害関係の乏しい酒造税の増徴には反対に回らなかった事も理由としてあげられる。
こうした事態に酒の醸造業者は強く反発して酒屋会議などを結成して抵抗したが、政府は濁酒を含む全ての自家用酒造を禁止(どぶろくを参照のこと)して醸造業者の保護を約束する事で増税を受け入れさせた。事実、日露戦争が始まった1904年を皮切りに1905年、1908年、1918年、1920年、1925年と増税が続き、日中戦争が始まった1937年以後は毎年増税される事となった。また、酒造税は1899年に地租を抜いて国税収入の第1位を占めると、第一次世界大戦下の大戦景気の数年間を例外として1935年に所得税に抜かされるまで30年以上にわたって税収1位の地位を保持し続けたのである。なお、1902年には酒造税だけで全ての国税収入の実に42%を占めたこともあった。
1940年、これまで酒造税法の枠外に置かれて独自の課税体系に属していたビールや工業用アルコールなどを全ての酒類を統括した「酒税法」が施行される。1944年には課税基準が造石高から庫出高に変更された。戦後は1950年に国税収入の18.5%を占めたのをピークに増税傾向の継続にも関わらず他産業の復興もあってその占める地位は低下しつつある。そんな状況下の1953年に現行の酒税法が施行されている。
織田 信長(おだ のぶなが)は、日本の近世の最初期にあたる戦国時代から安土桃山時代にかけて、世に多大な影響を残した武将であり、大名(戦国大名)である。
実権を伴う統一者のいない政治的混沌を収集に向かわせた時代の中心人物であるが、その事業は、大方向を示したところで重臣の一人・明智光秀の裏切りに遭い、自刃に追い込まれたことによって頓挫(とんざ)した。ただし、政権の実質的後継者となった羽柴秀吉が、信長の握っていた時代的意義も引き継ぎ、先に進めることとなったことから、豊臣秀吉が継ぎ、徳川家康が完成させる日本近世の形成事業の、創始と言うべき位置づけにあった政治家である。
※日付は和暦による旧暦。西暦表記の部分はユリウス暦とする。
概要
古渡城主・織田信秀の次男または三男として生まれる。異母兄が2人いるとする説がある[1]。信長が嫡男として育てられたようで、幼児のときに那古屋城主となっている。
天文20年(1551年)、急死した父の後を受けて家督を継ぐも、同母弟・織田信勝(信行)と家督争いが発生し、これに勝利する。その後、敵対勢力を次々と下していき、尾張を統一した。
永禄3年(1560年)、今川義元を桶狭間の戦いで破り、永禄10年(1567年)には美濃の斎藤氏を滅ぼした。その翌年には足利義昭を奉じて上洛を果たし、義昭を将軍位につけるも次第に関係が悪化して、元亀4年(1573年)これを追放した。武田氏、朝倉氏、延暦寺、石山本願寺などから成る信長包囲網が結成されるが、元亀元年(1570年)の姉川の戦いで浅井・朝倉両氏を破り、元亀2年(1571年)には比叡山延暦寺を焼き討ちする。天正3年(1575年)に長篠の戦いで武田勝頼に大勝。以後、天下布武を推し進め、楽市楽座、検地などの政策を採用する(織田政権)。
既存の権威や勢力(朝廷・仏教など)を武力で排除し、出自に囚われない大胆な人材登用や伝統に縛られない新機軸の方針・政策を断行、応仁の乱以後続いた戦国時代を終結へと導いた。天下統一を目前とした天正10年(1582年)6月2日、家臣・明智光秀の謀反により京都・本能寺において自害した(本能寺の変)。
ルイス・フロイスは「(信長が)自ら第六天魔王と称した」と書き残している。
生涯
少年期
天文3年(1534年)5月12日、
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の戦国大名・織田信秀の次男[2]として、勝幡城(那古野城説もある)で生まれた。幼名は吉法師。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張守護斯波氏の被官、尾張下四郡守護代に補任された織田大和守家即ち清洲織田家の分家にして同家重臣たる清洲三奉行・古渡城主の家柄であった。
母・土田御前が信秀の正室であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。幼少から青年時にかけて奇矯な行動が多く、周囲から尾張の大うつけと称された。日本へ伝わった種子島銃に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。
まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する清洲城下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くからのものであった。また、今川方へ人質として護送されていたが、三河の戸田康光が寝返ったため、織田方に護送されてきた松平竹千代(後の徳川家康)と幼少期をともに過ごし、のちに両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。
天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、織田上総介(織田信長)と称する。天文17年(1548年)、
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の信秀と敵対していた美濃の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、道三の娘・帰蝶と信長とは政略結婚した。天文18年(1549年)(異説では天文22年(1553年))に信長は正徳寺で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長の器量を見抜いたとの逸話がある。
天文20年(1551年)、父・信秀が没したため、家督を継ぐが、その葬儀において祭壇に抹香を投げつけた[3]。天文22年(1553年)、信長の教育係であった平手政秀が自害。これは、奇行が目立つ信長を諌めるための諫死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためとも言われる。信長は嘆き悲しみ、沢彦和尚を開山として政秀寺を建立し、政秀の霊を弔った。