■沖縄サンコーストホテル

当時、尾張は守護大名の斯波氏が衰え、尾張下4郡の守護代であった「織田大和守家」当主にして清洲城主織田信友が実権を掌握していた。しかし、信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その秀でた智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大していた。信秀の死後、信長が後を継ぐと、信友は信長の弟・織田信勝(信行)の家督相続を支持し、信長と敵対。信長謀殺計画を企てた。しかし、信友により権威維持の傀儡にされた尾張守護・斯波義統が、その計画を事前に信長に密告した。これに激怒し信友は、義統の嫡男・斯波義銀が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。 このため、義銀が信長を頼って落ち延びてくると、信長は信友を義統を殺した謀反人であるとして、叔父・織田信光(守山城主)と協力して信友を殺害する。こうして尾張下4郡の守護代「織田大和守家」は滅び、那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張守護所を手中に収め、織田家の庶家であった信長が、名実ともに織田家の頭領となった。叔父の信光も死亡しているが、誰の手によるものかどうかは不明である。 弘治2年(1556年)4月、岳父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いに敗れて死去。包茎 も道三へ援軍を出したが、間に合わなかったといわれている。 こうしたなか、信長の当主としての器量を疑問視した織田家重臣の林秀貞、林美作守、柴田勝家らは、信長を廃し、聡明で知られた信長の同母弟・信勝(信行)を擁立しようとした。これに対して信長には森可成、佐久間盛重、佐久間信盛らが味方し、両派は対立する。 道三の死去を好機と見た信勝派は同年8月24日、挙兵して信長と戦うも敗北(稲生の戦い)。その後、信長は末盛城に籠もったセミナー を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。しかし、弘治3年(1557年)、信勝は再び謀反を企てる。このとき、稲生の戦いののちより信長方に通じていた柴田勝家の密告があり、事態を悟った信長は、病い(仮病)と称して信勝を清洲城に誘い出し、殺害した[4]。 さらに信長は、同族の犬山城主織田信清と協力し、旧主・「織田大和守家」の宿敵で織田一門の宗家であった尾張上四郡の守護代・「織田伊勢守家」(岩倉織田家)の岩倉城主・織田信賢を破って(浮野の戦い)、これを追放。新たに守護として擁立した斯波義銀が、斯波一族の石橋氏と、同じ足利一門にあたる吉良氏と通じて信長の追討を画策していることが発覚すると、信長は義銀を追放した。 こうして信長は、永禄2年(1559年)までにはトラック買取 の支配権を確立した。 桶狭間の戦いから清洲同盟へ 桶狭間古戦場、伝説の地 (愛知県豊明市) 織田信長 銅像 (愛知県清須市、清洲公園)尾張統一を果たした翌年・永禄3年(1560年)5月、駿河の戦国大名・今川義元が尾張へ侵攻。駿河のほか、遠江・三河を支配する義元の軍勢は2万とも4万とも号する大軍であった。織田軍はこれに対して防戦したが、総兵力は5,000人。今川軍は三河の松平元康(のちの徳川家康)率いる三河兵を先鋒にして、織田方の城砦を次々と陥落させていった。 織田家の危機に際して信長は静寂を保ち、監視カメラ 、幸若舞『敦盛』を舞った後、装具を身に付け出陣し、まず熱田神宮に参拝。その後、善照寺砦で約4,000人の軍勢を整えて出撃。今川軍の陣中に強襲をかけ、義元を討ち取った。永禄3年(1560年)5月19日に行われたこの合戦を桶狭間の戦いと言う。総大将の討死を知った今川軍は、本国駿河に潰走していった。 桶狭間の戦いののち、今川氏はその勢力を衰退させる。このため、今川氏の支配から三河国の徳川家康(この頃、松平元康より改名)が独立して戦国大名となる。当時、信長は美濃攻略のために斎藤氏と交戦しており、家康も甲斐の武田信玄や駿河の今川氏真(義元の嫡男)らに警戒する脱毛 があったため、利害関係が一致していた。そのため両者は永禄5年(1562年)、清洲同盟(織徳同盟)を結んで背後を固めた。 美濃攻略 斎藤道三亡き後、信長と美濃斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し、嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、斎藤家は家臣団内部で分裂が始まる。対斎藤戦で優位に立った信長は、永禄7年(1564年)には北近江の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は妹・市を輿入れさせた。 永禄9年(1566年)には粗大ゴミ の多くの諸城を戦いと調略によって手に入れ、さらに西美濃三人衆(稲葉一鉄、氏家直元、安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、美濃国を手に入れた。こうして尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になったとき、信長は33歳であった。このとき、井ノ口を岐阜と改称している[5]。また、この頃から『天下布武』の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになった。 一方で信長は永禄8年(1565年)より伊勢へ進出し、北畠具教など当地の諸氏とも戦っている。ここで活躍を見せた滝川一益は採り立てられ、以降、信長の重臣の一人となった。 上洛 織田信長軍 永楽銭(永楽通宝)の旗印このころ中央では、永禄8年(1565年)、かねて京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の有力者・三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)と松永久秀が、室町幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた第13代将軍・足利義輝を暗殺し、第14代将軍として義輝の従弟・足利義栄を傀儡として擁立する(永禄の変)。 久秀らはさらに義輝の弟・足利義昭の暗殺も謀ったが、義昭は細川藤孝、和田惟政ら幕臣の支援を受けて京都から脱出し、越前国の朝倉義景のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年(1568年)7月には美濃の信長へ接近を図ってきた。信長は義昭の三好氏追討要請を応諾する一方で、美濃国と国境を接する甲斐の戦国大名・武田信玄に対しては、信玄の四男・武田勝頼に養女(遠山夫人)を娶せることで同盟を結んだが、遠山夫人は武田信勝を出産した直後に早世したため、嫡男・信忠と信玄の六女・松姫との婚姻関係を模索し、友好関係を保つ姿勢をとるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。 そして9月、信長は天下布武への大義名分として第15代将軍に足利義昭を奉戴し、上洛を開始した。これに対して抵抗した南近江の戦国大名、六角氏嫡流の後見役であった六角定頼系の六角義賢・六角義治父子は織田軍の猛攻を受けて観音寺城が落城する(観音寺城の戦い)と伊賀に逃亡して定頼系六角氏は滅亡し、以降はゲリラ戦を展開した。このとき、六角氏嫡流の六角義秀・義郷は信長に庇護(ひご)されている。信長が上洛すると、それまで中央を押さえていた三好義継・松永久秀らは信長の実力を悟って臣従し、他の三好三人衆に属した勢力の多くは阿波へ逃亡する。唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏した。こうして、三好長慶以来中央政治を牛耳っていた三好・松永政権は、信長の電撃的な上洛によってわずか半月で崩壊し、代わって足利義昭を第15代将軍として擁立した信長による織田政権が誕生した。このとき、信長は義昭から副将軍の地位を勧められたが、既に将軍家を見限っていたため謝絶したとされる。 永禄12年(1569年)1月、信長率いる織田軍主力が美濃に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら美濃浪人衆が共謀し、足利義昭の御所である六条本国寺を攻撃した(六条合戦)。しかし、信長は豪雪が降る中をわずか2日で援軍に駆けつけるという神速の速さを見せたといわれている[6]。もっとも、浅井長政や池田勝正の援軍と明智光秀の奮戦により、三好・斎藤軍は信長の到着を待たず敗退していた。 1月10日には三好軍と共同して決起した高槻城の入江春景を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず、処刑し、和田惟政を高槻に入城させ、摂津国を摂津守護の池田勝正を筆頭とし伊丹氏と惟政の3人に統治させた(摂津三守護)。同日、信長は堺に2万貫の矢銭と、織田家への服属を要求する。これに対して堺会合衆は三好三人衆を頼りに抵抗するが、三好三人衆が織田軍に敗退すると臣従を余儀無くされた。 伊勢への侵攻も大詰めを迎える。永禄11年(1568年)には神戸具盛を降伏させ、三男の織田信孝を神戸氏の養子として送り込んだ。翌12年(1569年)には伊勢国司である北畠具教も降伏させ、次男・織田信雄を北畠氏の養子として送り込む。のち具盛は幽閉され、北畠一族は殺害されている。こうして信長は、畿内における勢力を拡大していったのである。