■カヌチャベイホテル&ヴィラズ
3万8,000人に増大した織田・徳川連合軍は5月18日、設楽ヶ原に陣を敷いた。そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の戦い)。この戦いで、信長は1,000丁余りの鉄砲を用いた一斉射撃(『信長公記』による)を行わせ、武田軍に圧勝する(いわゆる「三段撃ち」戦法については、実在を疑問視する学説が大勢である)。この戦いで武田の大軍から長篠城を防衛した奥平貞昌は(信長の偏諱を賜り)信昌と改名し、家康の長女・亀姫を貰い受け正室としている。
前年に信長から越前を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前を奪った本願寺門徒では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年(1575年)1月、長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前を一揆の持ちたる国とした。そして顕如の命令で守護代として下間頼照が派遣されたのであるが、この頼照が前の領主である桂田長俊以上の悪政を敷いたために、一揆の内部分裂が進んでいた。これを好機と見た信長は長篠合戦が終わった直後の8月、越前に行軍した。
これに対して一揆勢も抵抗したが、すでに内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や朝倉景健らを始め、12,250人を数える越前・加賀門徒が織田軍によって討伐されたといわれている[8][9]。
こうして越前は再び織田領となり、信長は越前8郡を柴田勝家に与えた。このとき、信長は勝家に対して北国経営の掟を与えたといわれている。
第二次信長包囲網
詳細は信長包囲網#第二次包囲網を参照
安土城天主信長の館(安土城復元天主) 滋賀県蒲生郡安土町天正3年(1575年)11月4日、信長は権大納言、11月7日に右近衛大将に叙任する。
11月28日、信長は嫡男・織田信忠に 織田家の家督ならびに美濃・尾張などの領地を譲って建前上隠居した。しかし、信長は織田家の政治・軍事を執行する立場にあった。
天正4年(1576年)1月、信長は琵琶湖湖岸に安土城の築城を信長自身が指揮を執り、開始する。安土城は天正7年(1579年)に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。天主内部は吹き抜けとなっていたといわれている。イエスズ会の宣教師は「このような豪華な城は欧州にも存在しない」と母国に驚嘆の手紙を送っている。
武蔵野タワーズ
は岐阜城を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に天下一統(近年、俗に天下統一とも言う)に邁進することとなる。
天正4年(1576年)1月、信長に誼(よしみ)を通じていた
不動産担保ローン
の波多野秀治が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。これに対し信長は4月、明智光秀や荒木村重、原田直政を大将とした3万の軍勢を大坂に派遣したが、葦原の戦いで大敗を喫し、原田直政をはじめ1,000人以上が戦死してしまった。
大坂の織田軍は勢いづく石山勢の攻勢に窮して天王寺砦に立て籠もるが、石山勢はこれを包囲し、天王寺で織田勢は窮地に陥った。信長は5月5日に若江城に入り
湘南 不動産
を出したが、集まったのは3,000人ほどであった。しかし信長は5月7日早朝、その3,000人の軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する石山勢1万5,000人に攻め入った(天王寺砦の戦い)。信長自身も負傷する激戦となったが、信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は石山勢の撃破に成功した。
その後、織田軍は石山御坊を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7月13日、石山本願寺の援軍に現れた毛利水軍800隻の前に、織田水軍は敗れ(第一次木津川口の戦い)、毛利勢により石山に兵糧弾薬が運び込まれた。
この頃、越後の戦国大名上杉謙信と信長との関係は悪化し[10]、謙信は天正4年(1576年)に石山本願寺と和睦。
武蔵野マンション
との同盟を破棄し、信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元、石山本願寺、波多野秀治、紀州雑賀衆などが反信長に同調し、決起した。
これに対し信長は、天正5年(1577年)2月、紀州雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣するが、毛利水軍による背後援助や謙信の能登侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆の頭領・雑賀孫一を降伏させたという(人質の提供も無い、形だけのものといわれている)。こうして形式的な和睦を行ない、紀伊から撤兵した。
一方、謙信の攻勢を耐えていた能登七尾城の長続連は信長に援軍を要請する。信長はこれに対し、柴田勝家を総大将とした3万を前軍、
逗子 不動産
らが率いる本隊1万8,000人を後軍として出陣する。しかし、9月15日に七尾城は落城し、9月23日に前軍は謙信率いる上杉軍の前に敗れた(手取川の戦い)。信長はこれを知り、謙信との衝突を避けて安土に帰還した。
信長の窮地を見た
マンスリーマンション
の松永久秀は謙信と呼応して信長を裏切り、挙兵する。久秀の謀反を知って信長は加賀から撤兵し、織田信忠を総大将とした大軍を信貴山城に派遣し、10月に久秀を討ち取った(信貴山城の戦い)。しかし、謙信との戦いで不利な立場に立たされた信長は、毛利氏、石山本願寺の攻勢もあって再び苦境に陥った。
ところが、久秀を討った10月、
津田沼一戸建て
に抵抗していた丹波亀山城の内藤定政が病死する。織田軍はこの機を逃さず、亀山城、籾井城、笹山城などの丹波の諸城を攻略した。天正6年(1578年)3月13日には上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めることなく急死したので、養子の上杉景勝と上杉景虎が後継ぎ争いを始めた。この間、織田軍は上杉領の能登、加賀を攻略する。そして、謙信の死によってまたも信長包囲網は崩壊した。
織田方面軍団
北陸方面・柴田勝家軍団
中山方面・織田信忠軍団(滝川一益軍団)
畿内方面・明智光秀軍団
中国方面・羽柴秀吉軍団
四国方面・丹羽長秀・織田信孝軍団(天正10年結成)
対本願寺方面・佐久間信盛軍団
東海道の抑えは徳川家康
天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田家に具わっていた。信長は部下の武将に大名級の所領を与え、自由度の高い統治をさせ、周辺の攻略に当たらせた。これら信長配下の新設大名を「軍団」とか「方面軍」などと呼称する研究者もおり、今日では一般書でもかなり見かける記述となっている。もちろん当時はそのような名称は無かった。
謙信の死後、御家騒動を経て後を継いだ上杉景勝に対しては柴田勝家、前田利家、佐々成政らを、武田勝頼に対しては嫡男・織田信忠、滝川一益、森長可らを、波多野秀治に対しては明智光秀、細川藤孝らを(黒井城の戦い)、毛利輝元に対しては羽柴秀吉を、石山本願寺に対しては佐久間信盛を配備した。
織田軍は謙信の死後、上杉氏との戦いを優位に進め、能登・加賀を奪い、越中にも侵攻する勢いを見せた。
天正6年(1578年)3月播磨の別所長治の謀反(三木合戦)が起こり、また、毛利は激しい抵抗を行い、同年7月、上月城は毛利の手に落ちて山中鹿之介ら尼子再興軍という味方を失う(上月城の戦い)。10月には摂津の荒木村重が有岡城に籠って信長から離反し、本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、村重の与力であり東摂津を領する中川清秀、高山重友は信長に降伏した。
同年11月6日、第二次木津川口の戦いで毛利水軍が信長考案の鉄甲船6隻に大敗を喫し、孤立した石山本願寺と荒木村重は毛利の援助を受けることができなくなった。このころから信長方は優位に立つ。天正7年(1579年)夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、村重が妻子を置き去りにして有岡城から逃亡すると城は落城し、荒木一族の大半が処刑された。次いで10月、それまで毛利方であった備前の宇喜多直家が信長に服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。翌・天正8年(1580年)1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。同年4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺も織田有利の条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨、但馬、天正9年(1581年)には鳥取城を兵糧攻めに追い込み因幡、さらには岩屋城を落として淡路を攻略した。
天正7年(1579年)、伊勢の出城構築を伊賀の国人に妨害されて立腹した織田信雄は独断で伊賀国に侵攻し、大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責するとともに、伊賀国人への敵意をも募らせた(第一次天正伊賀の乱)。そして天正9年(1581年)、信雄を再び総大将とし、6万の軍勢で伊賀を攻略。伊賀は織田家の領地となった(第二次天正伊賀の乱)。
天正7年(1579年)、信長は徳川家康の嫡男・松平信康と、信康の生母の築山殿に対し切腹を命じた。理由は信康の12か条の乱行、築山殿の武田勝頼への内通などである。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は2人を自害させた(これに関しては異説もある)。