■オン・ザ・ビーチルー
天正8年(1580年)8月、信長は譜代の老臣・佐久間信盛とその嫡男・佐久間正勝に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦さに係る不手際を理由に追放処分とした。さらに、古参の林秀貞と安藤守就も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。
武田征伐
詳細は武田征伐を参照
天正9年(1581年)、信長は絶頂期にあった。2月28日には京の都の内裏東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行なっている。いわゆる京都御馬揃えであるが、これには信長はじめ織田家一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を示すものであった[11]。このときの御馬揃えには正親町天皇を招待している。
同年5月に越中を守っていた上杉氏の武将・河田長親が急死した隙を突いて織田軍は越中に行軍し、
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の大部分を支配下に置いた。3月23日には高天神城を奪回し、武田氏を追いつめた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の土橋平次らと争うなどして勢力を減退させた。
同年に荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、高野山が信長と敵対する動きを見せた。対して使者10数人を差し向け、穏便に事を収めようとする信長であったが、高野山側は使者を全て殺害。これに激怒した信長は、織田領における高野聖数百人を捕らえるとともに、河内や大和の諸大名に命じて高野山を包囲させた。
翌・天正10年(1582年)2月1日、武田信玄の娘婿であった木曽義昌が、信長に寝返りを申し出た。これを信長は了承し、2月3日に武田に対しての大動員令を信忠に発令した。そして、徳川家康は駿河から、北条氏直が関東から、金森長近が飛騨から、信忠は木曽から、それぞれ武田領への攻略を開始した。兵の数は10万余に上ったといわれている。これに対して武田軍は、伊那城の城兵が城将・下条伊豆守を追い出して織田軍に降伏。さらに信濃松尾城主・小笠原信嶺、駿河田中城主・依田信蕃、駿河江尻城主・穴山信君らも先を争うように織田軍に降伏し、武田軍は組織的な抵抗もできずに敗北する。
信長が武田征伐に出陣したのは3月8日であるが、その日に信忠は甲府を占領し、3月11日には甲斐東部の田野において武田勝頼・信勝親子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡した。甲斐武田氏滅亡後に信長は、「武田に属していた者はたとえ恭順の意思を示そうとも容赦無く一族まとめて根絶やしにせよ」とする、いわゆる「武田狩り」を命じたといわれる[12][13][14]。
武田氏滅亡後、信長は駿河を徳川家康に、上野を滝川一益に、甲斐を河尻秀隆に、
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を森長可、南信濃を毛利長秀に与えて北条氏直への抑えとしつつも、かつての信玄や謙信に対したのと同じ平和外交に徹し、同盟関係を保った。
本能寺の変
詳細は本能寺の変を参照
天正10年(1582年)夏、信長は四国の長宗我部元親攻略に、三男・神戸信孝、重臣の丹羽長秀の軍団を派遣する準備を進めていた。
同年5月15日、駿河国加増の礼のため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。
家康接待が続くなか信長は、備中高松城攻めを行なっている最中の羽柴秀吉の使者より、援軍の依頼を受けた。「毛利方が大軍を率い、高松城への救援に向かう動きがある」とのことであった。
信長は光秀の接待役の任を解き、秀吉への
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に向かうよう命じた。のち『明智軍記』などによって江戸時代以降流布される俗説では、このとき、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は小姓の森蘭丸に命じて光秀の頭をはたかせた、としている。
信長は5月29日、毛利遠征の出兵準備のために上洛し、その後は本能寺(在京)に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智光秀軍が突然京に現れ、6月2日に本能寺を急襲する。この際に光秀は、部下の信長に寄せる信頼の篤きを慮り、現に光秀への忠誠を誓う者が少なかったため、侵攻にあたっては標的が信長であることを伏せていたといわれる。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら槍を手に奮闘したとされている。しかし圧倒的多数の光秀軍を前に最期を悟り、居間に戻った信長は自ら火を放ち、燃え盛る炎の中で自害したと伝えられる(本能寺の変)。享年49(満48歳没)であった。
明智光秀の娘婿・明智秀満が信長の遺体を探したが見つからなかったといわれているが、信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説もある。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に黒人の家来・弥助がいた。彼は本能寺の変で戦うも光秀に捕らえられ、しかし放免となっている。その後の消息は不明である。
2007年に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。本能寺については、城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されている。
「なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府」(時鳥はホトトギス)という歌がその性格を表していると言われているが、これは本人が作ったものではなく平戸藩主・松浦清(松浦静山)の随筆『甲子夜話』に収録された当時詠み人知らずで伝わった歌の引用である(q:時鳥#川柳)。また、この歌の続きには「鳥屋にやれよ...」とあり、戦国時代の武将達に比して江戸の将軍はあまりに気骨が無いと批判するもので、信長の性格というよりもその自他を含めた生死を見極める決断力や気概を評価した歌であったようである。
『信長公記』によれば、浅井父子と朝倉義景の三人の頭蓋骨に金箔を塗り、「他国衆退出の已後 御馬廻ばかり」の酒宴の際に披露した。これは後世、杯代わりにして家臣に飲ませたという話になっているが、小説家の潤色であり、実際には
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していない。髑髏を薄濃(はくだみ)にするというのは、死者への敬意を表すものである。
ルイス・フロイスは信長の人物像を「長身、痩躯で髭は少ない。声はかん高く、常に武技を好み、粗野である。正義や慈悲の行いを好み、傲慢で名誉を尊ぶ。決断力に富み、戦術に巧みであるが規律を守らず、部下の進言に従うことはほとんど無い。人々からは異常なほどの畏敬を受けている。酒は飲まない。自分をへりくだることはほとんど無く、自分以外の大名のほとんどを軽蔑しており、まるで自分の部下のごとく語る。よき理解力、明晰な判断力に優れ、神仏など偶像を軽視し、占いは一切信じない。名義上法華宗ということになっているが、宇宙の造主、霊魂の不滅、死後の世界などありはしないと明言している。その事業は完全かつ功名を極めている。人と語るときには遠回しな言い方を嫌う」と記した。
世間の評判を重視しており、常に正しい戦いであると主張することに腐心していたことが、京の公家などが記した日記などから窺い知ることができる。 信長の事績の内容に対する評価は、時代や解釈する者によって大きな差がある。古い権威を否定するための断行的政策については当時から現代に至るまで非難が多い。そのため、狂気の革命家と評する者もいる。ただし、こうした非難については、信長の死後に織田家を乗っ取った秀吉・家康の情報操作の可能性を考慮する必要がある。実際この二人は織田家を警戒していたのか、冷遇しつつも後継者にはそれぞれ織田家の血をひく者を当てており、死後もその影響力は大きかったようである。
当時の宗教勢力が世俗の権力と一体化して宗教としての意義を忘れていたことや僧侶の腐敗ぶりを鑑みてか、新井白石は、「そのことは残忍なりといえども 長く僧侶の凶悪を除けり これもまた 天下の功有事の一つと成すべし」と評した。
茶坊主に何らかの不手際があり、信長が激怒したことがあった。茶坊主は怒りを怖れて棚に隠れたが、信長は棚ごと茶坊主を斬り殺したという逸話がある。そのときの刀は切れ味の良さから「圧し切り長谷部(へしきりはせべ)」と名づけられたという。