■Villa Della Sera

また一方では安土城天主内の天井、壁画に仏教、道教、儒教を題材とした絵画を使用したり、浄土真宗や延暦寺の宗教活動自体は禁止しなかった。 安土城内に信長に代わる『梵山』と称する大石を安置して御神体とし、家臣や領民に礼拝を強要したと伝えられる(ルイス・フロイス『日本史』)。この自己神格化については、朝廷との関係や大陸出兵構想などの視点から肯定的な学説が数ある一方、否定的な学説も多い。また、フロイスがこのことを記述したのは信長の死後で、フロイスの記述以外の一級史料に見ることができないため、フロイスの記述そのものの信憑性について疑問視する研究もある。 朝廷政策 信長と朝廷との関係については、対立関係にあったとする説(対立説)と融和的な関係にあったとする説(融和説)で学界は二分されている。朝廷の代表者である正親町天皇と信長の関係については、織田政権の性格づけに関わる大きな問題であり、1970年代より活発な論争が行われてきた。1990年代以降は、今谷明が正親町天皇を信長への最大の対抗者として位置づけた『信長と天皇』を上梓し、桐野作人・立花京子らが実証研究に基づく本能寺の変「朝廷黒幕説」を提示するなど、本能寺の変の真相研究などと絡んで論争が活発になっている[17]。 ただし、残存史料が不完全なこともあり、信長と朝廷の出来事をめぐっては全く違う解釈が可能である。 谷口克広は、いずれかの説をとる研究家を以下のように分類している。[18] 対立説…秋田弘毅、朝尾直弘、池亨、今谷明、奥野高廣、立花京子、藤木久志、藤田達生 融和説…桐野作人、谷口克広、橋本政宣、堀新、三鬼清一郎、山本博文、脇田修 以下、信長と朝廷との関係についての論点と双方の説について述べる。[19] 正親町天皇の譲位問題 天正元年(1573年)12月に信長より譲位の申し入れがあり、天皇もこれを喜んで受諾した。しかし、年が押し迫っていたため譲位は行われず、結局信長の死まで譲位は行われなかった。 「対立説」…朝尾、今谷、奥野、藤木ら 信長は朝廷に対しては金を出すだけでなく、口も出し、信長の言いなりにならない天皇と対立した。 各論 誠仁親王への譲位と足利義尋(足利義昭の子)への将軍宣下を同時に行うことで、信長が両者を包摂した権力者になることを天皇が拒絶した…朝尾 「融和説」…谷口、橋本、堀、脇田ら 天皇が譲位を希望しながら、信長の経済的事情により実現しなかった。 これまで朝廷は財政難により、天皇の譲位が行われてこなかった[20]。天皇の譲位は、信長の経済的バックアップによりはじめて可能となるのである。すなわち、天皇側が譲位を希望しても、信長が同意しない限り譲位は不可能であった。天正9年(1581年)の京都御馬揃え直後、正親町天皇から退位の希望が信長に伝えられ、朝廷の内部資料である『お湯殿の上の日記』には同年3月24日に譲位が一旦決定して「めでたいめでたい」とまで記載されたにも関わらず、『兼見卿記』4月1日には一転中止になったと記されている。 天正9年京都御馬揃え 信長が天正9年(1581年)に行った「馬揃え」への評価。 「対立説」…朝尾、今谷、立花、藤木ら 織田軍の力を見せ付けると同時に、朝廷への圧力、示威行動であった。 各論 なかなか譲位に応じない天皇を譲位させるための圧力…朝尾、今谷ら 左大臣推任への圧力…立花 「融和説」…谷口、橋本、堀、脇田ら 正親町天皇は馬揃えにおける信長側の好待遇に喜んで信長に手紙を送って御服を下賜し、信忠にも褒賞を与えている。また、馬揃えには前関白近衛前久ら公家も参加していた。そのため、朝廷を威圧する目的はなく、京都の平和回復を宣伝するとともに天皇を厚遇して朝廷尊重の姿勢を見せる政治的な目的があった。 各論 織田家中の士気の高揚と畿内制覇を天下に誇示するため…橋本 誠仁親王の生母である万里小路房子の死去に伴う沈滞した朝廷の雰囲気を払拭するために、朝廷から依頼され、北海道旅行 沖縄旅行 沖縄旅行 北海道旅行 沖縄 レンタカー 沖縄旅行 レンタカー が安土城で行わせた大規模な左義長を再現した…堀 信長と官職 信長は天正6年(1578年)4月、右大臣兼右近衛大将を辞した後、官職に就こうとはしなかった。この後2度にわたって信長の任官が問題となり、二度目となる天正10年5月の三職推任問題では、征夷大将軍・太政大臣・関白のいずれかを与えるという条件にも関わらず、信長は朝廷から官位を受けなかった。 「対立説」…秋田、朝尾、今谷、藤木ら 朝廷離れの姿勢を示したものである。 各論 天皇を自分の権力機構に組み込もうとするため…秋田 官位制度の枠外に立つことで朝廷の枠組みから解放されようとしたため…朝尾 官職就任を天皇の譲位と交換条件にしたため…今谷 「融和説」…谷口、橋本、堀、脇田ら 朝廷離れの姿勢を示したものではない。 各論 足利義昭への対抗として右近衛大将[21]に任官した以上、信長にとって官位は不要だった…谷口 宮廷儀礼から解放されるため…脇田 信忠の任官を望んだため…堀、谷口 非公式に太政大臣就任を了承していた…橋本、脇田[22] 三職推任問題については、双方の説も朝廷主導と見るのが有力であったが、立花京子が信長の意思であるとの新説を提唱し、論争となった。なお、三職推任問題については、条件提示が本能寺の変直前であったために時間がなくて返答できなかったとも考えられている。 詳細は三職推任問題を参照 商業政策 商工業者に楽市・楽座の朱印状を与え、不必要なダイビング を撤廃して経済と流通を活性化させるとともに、検地を徹底して領国支配を確立し、家臣を城下に居住させて常備軍を編成した。ただ、全ての座を無くさせたわけではない(そんな事をすれば当時の流通は麻痺してしまう)。したがって楽座にできるところは楽座に、京都のように座が力を持っている都市では座を利用した。 人事政策 この節には『独自研究』に基づいた記述が含まれているおそれがあります。解釈、評価、分析、総合の根拠となる出典を示してください。 能力主義を重視して、足軽出身の木下藤吉郎(羽柴秀吉)、浪人になっていた明智光秀、忍者出身とされている滝川一益などを登用する一方で、譜代の重臣である佐久間信盛や林秀貞らを追放した。佐久間や林にはそれなりの実績があったが、同様の譜代家臣ながら北陸方面軍の指揮官として活躍する柴田勝家などと比すと物足りないものがあった。重臣として織田家に居座りつつ、活躍以上の利権を自己主張する佐久間や林に対し、懲罰的粛清を断行したと見る向きもある。しかし、佐久間信盛には19ヶ条の折檻状をだし、それを要約するとただ有無を言わさず追放したのでは無く、隠棲するか命を懸けて手柄を立てるかを選ばせている。この折檻状や前田利家の復帰から、失敗を上回る功績を立てれば許すという方針を持っていたと言える。 佐久間信盛や林秀貞ら譜代家臣および安藤守就の粛正については、家臣の所領を整理し織田家直轄領を増やす目的もあったと見る事もできる。 当時流行した茶の湯を家臣団掌握の手段など、政治的に活用し、一国に値する程の価値があった『名器と称される茶道具』を領地、金銭に代わる恩賞として与えたりもした。恩賞と領地加増の関係については、どの大名にとっても多かれ少なかれ頭の痛い問題であったのだが、信長はそれをうまく改善してのけたと言える。甲斐攻略で戦功を上げた滝川一益が信長に対し、珠光小茄子という茶器を恩賞として希望したが、与えられたのは関東管領の称号と上野一国の加増でがっかりしたという逸話がある。 宣教師と共にやってきた外国兵を受け入れ、国籍を問わず、自らの兵として登用していた。 人事においては厳しい一面があったように言われているが、羽柴秀吉が子に恵まれない正室・ねねに対して辛く当たっていることを知ると、秀吉を呼び出して厳しく叱責し、ねねに対しては励ましの手紙を送るなど、人間味を見せているところがある。また、高速バス 夜行バス 高速バス 夜行バス が追放した佐久間信盛・信栄に関しては信盛が亡くなると、信栄の帰参を許したことからも反省したと判断したのかは不明だがその動向を気にしてはいたようである。 信長の側近の中に軍師・参謀的な人物は全く見受けられず、堀秀政、森蘭丸といった、命令を遂行するために必要な秘書官だけが登用されていた(竹中半兵衛や黒田如水は、名目上は信長の家臣だったが、実際には秀吉の軍師として仕えていた。如水は信長の実力を認めながらも、信長に仕えても軍師として活躍の場が与えられないと考え、あえて秀吉を選んだという説が有力である)。ここまで成功した人物にそういったものがいないケースはそう多くない。信長自身が他人の意見に従う事を好まず、このことが、周囲の人物が信長の意図を理解できずについていけなくなっていった要因のひとつともいわれている。ただ、乱世の時代に急速な改革を遂行するためには止むを得なかったという見方もある。ちなみに、戦国時代に今でいう軍師自体存在していないので、竹中重治が軍師であったいうのは後世の創作である。 戦国時代に寝返りや裏切りは日常茶飯事であったにも関わらず、信長を裏切った者の大半は信長が上洛してからの家臣であり、尾張・美濃時代からの家臣の中で、信長に背く者はほとんど見受けられない。 天正8年(1580年)、信長は林秀貞を昔の謀反の罪で追放したが、同じ罪にあった柴田勝家には罪を問わなかった。そのうえ、信長は存命中、勝家に対し越前8郡75万石という織田家臣団随一の領国と、織田家筆頭家老の地位を与えていた。また、松永久秀に対してもその実力を評価し、二度も降伏を許している。このように、有能であれば、その罪を許し重用もしていた。 戦略 戦略としては、入念な準備を行い相手の力をそぎ、その上で相手よりも多くの兵によって戦うといったどちらかと言うと慎重な手段を用いることが多く、桶狭間の戦いに代表されるような敵の意表をつき寡兵で大軍を破ろうとする策はあまり取らなかった。特に信長がその存在を警戒した武田信玄・上杉謙信の両名には自分から積極的には兵を出さず慎重に対応した。信玄・謙信も信長へは単独では挑まず、周囲と協力して当たった。しかし、後述のように時には寡兵による戦闘を行っており、時機を考慮し遅れた援軍を待たずに交戦するなど臨機応変に対応している。 よく根切り(皆殺し)を命じたように思われているが、実際に相手の降伏も許さず殲滅したのは寺社勢力との戦ぐらいで武田征伐・第二次天正伊賀の乱等の戦いでも一部の相手の降伏を受け入れている。寺社勢力との戦いでも、先に武力を行使したことは無く和睦を申し出たり仏法に則っての中立を促すなどをしていたが、相手がそれを一蹴したり破るなどをしていた。長島・越前の戦い等では相手を殲滅したが、その大元である顕如率いる本願寺との和睦も何度か受け入れている。また、高天神城の戦いでの家康方への手紙を見ると相手への威圧や敵の調略を容易にする行為として駆使していたことが窺える。