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そのころ九州では大友氏、龍造寺氏を下した島津義久が勢力を大きく伸ばし、島津に圧迫された大友宗麟が秀吉に助けを求めてきていた。秀吉は島津義久に降伏勧告を行うが断られ、九州に攻め入ることになる。 天正14年(1586年)には豊後国戸次川(現在の大野川)において、仙石秀久を軍監とした、長宗我部元親、信親親子・十河存保・大友義統らの混合軍で島津軍の島津家久と戦うが、仙石秀久の失策により、長宗我部信親や十河存保が討ち取られるなどして大敗した(戸次川の戦い)。 だが天正15年(1587年)には秀吉自らが、弟・秀長と共に20万の大軍を率い、九州に本格的に侵攻し、島津軍を圧倒、島津義久・義弘らを降伏させる(九州征伐)。こうして秀吉は西日本の全域を服属させた。 九州征伐完了後に博多においてバテレン追放令を発布したが、事実上キリシタンは黙認された。天正16年(1588年)には刀狩令を出し大規模に推進した。 天正17年(1589年)、側室の淀殿との間に鶴松が産まれ、後継者に指名する。同年、後北条氏の家臣・猪俣邦憲が真田昌幸家臣・鈴木重則が守る上野国名胡桃城を奪取したのをきっかけとして、秀吉は天正18年(1590年)に関東に遠征、後北条氏の本拠小田原城を包囲した。 『太閤記』によると、秀吉は奥羽の諸氏に小田原に参陣するように命令したが、伊達政宗は遅参した。秀吉は、奥州の田舎太守(政宗)を「蠢く虫」と評し、政宗は恐れ入ったという。秀吉は、大器、天威、所世の人の及ぶべくもないと評され、格の違いを見せ付けた。政宗が首尾よく帰国すると、諸将は虎を放つのは危険と進言したが、歯向かえば誅伐すればよい、と語り、諸将は頓首したという。 小田原城は、上杉謙信や武田信玄も落とせなかった堅城だが、季節的な理由で撤兵する可能性のない包囲軍の前では無力であった。三ヶ月の篭城戦ののちに北条氏政・氏直父子は降伏。氏政・氏照は切腹し、氏直は紀伊の高野山に追放された(小田原征伐)。 最後の大敵・後北条氏を下し、ついに天下を統一する。秀吉は長きに渡って続いた戦国の世を終わらせたのである。しかし、臣従させた伊達氏のように、軍事的な殲滅の対象とならなかった諸大名が残っていたことにより、諸大名は軍事力を温存することができていた。この有力諸大名の処遇が秀吉の政権の課題となる。 天正19年(1591年)、後継者に指名していた鶴松が病死した。そのため、甥・秀次を養嗣子として関白職を譲り[12]、太閤(前関白の尊称)と呼ばれるようになる[13]。 また、茶人千利休に自害を命じている。利休の弟子の古田織部、細川忠興らの助命嘆願も空しく、利休は切腹して果て、首が一条戻橋で晒された。この事件が起きた理由については諸説がある。 この年、東北の南部氏一族、モバイルSEO が後継者争いのもつれから反乱を起こす。秀吉は南部信直の救援依頼に対し、豊臣秀次を総大将とした蒲生氏郷・浅野長政・石田三成を主力とする九戸討伐軍を派遣。東北諸大名もこれに加わり、6万の大軍となった。九戸政実・実親兄弟は抗戦するが、多勢に無勢の為やがて降伏。その後九戸氏は豊臣秀次に一族もろとも斬首されて滅亡。乱は終結した。 文禄元年(1592年)、16万の軍勢を朝鮮に出兵した(文禄の役)。初期は朝鮮軍を撃破し、漢城、平壌などを占領するなど圧倒したが、各地の義兵の抵抗や明の援軍の到着によって戦況は膠着状態となり。文禄2年(1593年)から休戦期に入り明との間に講和交渉が開始された。 この頃、側室の淀殿との間に秀頼が産まれた。2年後の文禄4年(1595年)、関白・豊臣秀次を「殺生関白」(摂政関白のもじり)と呼ばれたほどの乱行を理由に廃嫡して高野山に追放し、のちに切腹を命じた。秀次の補佐役であった古参の前野長康らも切腹処分となった。秀次の妻子などもこの時処刑された。秀次の乱行が実際にあったかには諸説あり、実子が生まれたので秀次が邪魔になったという見方もされている。 文禄5年(1596年)、文禄の役の講和交渉は決裂し、慶長2年(1597年)、14万人の軍を朝鮮へ再度出兵した(慶長の役)。同年の貴族の日記に、大阪城にいる秀吉のもとに象が連れて来られたと記録されている。 慶長3年(1598年)8月18日、五大老筆頭の徳川家康や秀頼の護り役の前田利家に後事を託して伏見城で没した。死因については胃癌など諸説がある。享年61(または62)。死の直後に通夜も葬儀も行われないまま、その日のうちに伏見城から阿弥陀ヶ峰に遺体を移し埋葬された。家督は秀頼が継いだ。 辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢 」。 秀吉の死によって慶長の役は終了した。7年に及ぶこの戦争は、朝鮮には国土の荒廃と軍民の大きなSEO をもたらした災厄であり、明には莫大な戦費の負担と兵員を損耗によって滅亡の一因となった。日本でも、動員された西国大名が加封を受けられずに疲弊した。秀吉の墓は壮麗に築かれた(後述)ものの、没後の混乱のため、葬儀は遂に行なわれなかった。 秀吉は、政策面では織田信長を踏襲し、楽市楽座・朱印船貿易による商業振興と都市の掌握・貨幣鋳造による商業統制を行った。太閤検地と刀狩は税制を確立させ、兵農分離と身分の格差を徹底させて江戸時代の幕藩体制の基礎を築いたと評価される(但し、近年では刀狩については不徹底に終わったという見方も有力である)。しかし、刀狩や検地・兵農分離なども元々は織田政権下で進められていたものであり、このことから秀吉は少なくとも政策・戦略面では信長を模倣したからこそ天下を取れたともいえる。[要出典] 秀吉は当初はキリシタンに好意的であったが、宣教師による信仰の強制、キリシタンによる寺社の破壊、宣教師たちの牛馬の肉食、日本人を奴隷商品として国外へ売却していた事などを理由に、天正15年(1587年)、伴天連追放令(バテレン追放令)を出した。幕末以降の歴史書・研究史においては、秀吉は、宣教師の行いを通じて、スペインやポルトガルの日本征服の意図を察知していた事が強調されている(関連:サン=フェリペ号事件)。しかし、スペインやポルトガルが日本征服を意図し、計画していたことについては正確な証拠がない。イエズス会員の書簡においては、明征服や九州征服に関する単独の提案があったのは確実であるが[14]、そういった提案は、スペインやポルトガルの高官によって無視されていた。 また、秀吉の朝鮮出兵、いわゆる文禄・慶長の役の動機については諸説あるものの、最近の研究では、スペインやポルトガルの明征服への対抗策であったという説がある[要出典](この説の裏づけとして、文禄3年(1593年)、朝鮮出兵中の秀吉は、マニラ総督府を「横浜 マンション に至ればルソンはすぐ近く予の指下にある」と手紙で恫喝している)。さらに大明国で皇帝になる妄想を持っていたと書かれた古文書もある[要出典]。 秀吉の対外認識について示す文書の1つに、九州遠征中の天正15年6月1日付で本願寺顕如に充てた朱印状の中で、「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」(「本願寺文書」)とある。「我朝之覚」とは神功皇后の三韓征伐の際の三韓服従の誓約あるいは天平勝宝2年(752年)に孝謙天皇が新羅の使者に伝えた新羅国王の入朝命令と考えられ、この例に倣って高麗(李氏朝鮮)国王は諸大名と同じように朝廷(秀吉)への出仕義務があると考えて、直後に李氏朝鮮に対してその旨の使者を送っている[15]。これは朝鮮が惣無事令などの日本の法令の適用対象として認識していた可能性を示すもので、実際に5月9日の段階で秀吉夫妻に仕える「こほ」という女性に対して「かうらい国へ御人しゆつか(はし)かのくにもせひはい申つけ候まま」と記して、九州平定の延長として高麗(朝鮮)平定の意向もある事を示す書状を送っている。こうした考え方が、文禄・慶長の役における対朝鮮政策にも深く影響していたと考えられている[16]。 人事においては、石田三成や大谷吉継らは文治・吏僚派、加藤清正や福島正則らを武断派として用いた。秀吉としては個人の能力に見合った仕事を与えることで両派を形成したのだと思われるが、両派を分断したことは秀吉の死後、豊臣家臣団の分裂を招くことにもつながった。 織田信長が重臣の林秀貞や佐久間信盛らを追放したことは有名だが、秀吉も神子田正治や尾藤知宣らを追放し、さらに軍師であった黒田孝高も冷遇して中枢から排除している。これらの面々は信長時代から秀吉に仕えていた譜代の家臣とも言ってよい人物だったため、その追放は譜代の家臣がいなかった豊臣家の衰退につながったと言っても過言ではない。 天下統一後の政権の中に、秀吉に縁の深い家臣団という一群と、外様大名という一群の二つの勢力が存在し、死後の政局争いの元となっている。 蒲生秀行、小早川秀秋ら諸大名を大した罪でも無いのに若年などを理由に減封・移封したことは、関ヶ原の戦いで彼らを東軍(徳川方)につかせる一因を成した。