■なきじん海辺の自然学校
本能寺の変の黒幕は秀吉ではないか、とされる説が囁かれる事が多い。その説の根拠は、秀吉の信長に対する必要ないと思われる援軍要請である。秀吉は備中高松城攻めのとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らが高松城の救援に出てきたため、信長に苦境を訴えて援軍を要請した。ところが当時の毛利氏は、相次ぐ対外戦争による財政的問題、豊後の大友宗麟や山陰の南条元続らの侵攻も受けていたため、高松城救援に用意できた兵力は羽柴軍の半分の1万5000ほどでしかなく、救援など不要であったと思われる。
では、なぜこのような要請を行なったのかと言えば、当時の信長は三職補任問題や皇位継承問題などで朝廷と頻繁に交渉していたため、京都に上洛する必要があった。明智光秀はそこを狙って「本能寺の変」を起こした訳だが、ひとつだけ大きな問題があった。それは、軍勢を集める理由である。ところが秀吉の必要ない救援要請で援軍に赴くように命じられたため、信長に疑われること無く軍勢を集め、その軍勢で光秀は京都の信長を討ち果たしているのである。光秀が近衛前久と内通していたという説があるように、秀吉も当時の朝廷の実力者である大納言の勧修寺晴豊あたりと内通しており、その筋から光秀の謀反計画を知り、わざわざこのような要請を行なったのではないかと言われている。
また、秀吉の中国大返しに関しても、如何に秀吉が優秀な武将だったとはいえ、あの速さは事前に用意をしていなければ出来ない、という
為替
が持たれている。
ただし、以上のような説は正規の学説にはなっておらず、むしろ小説家がフィクションとして採用している例がほとんどである。上記の説についても、反論を挙げる事は可能である。
『浅野家文書』には毛利軍5万人と記されており、秀吉は初期情報のこの数字を元に信長の援軍を請求した可能性が存在する。
明智光秀の援軍は、対毛利戦線の山陰道方面に対してのものであり、秀吉が現在戦っている山陽道方面ではない。
秀吉の援軍要請は、手柄を独占する事によって信長に疑念を持たれるのを避ける(信長自身を招いて信長に手柄を譲る)為の保身であり、有利な状況でありながら援軍を求める必然性は存在する。
いわゆる「中国大返し」についても、信長自身による援軍を迎えるための道中の準備が、たまたま功を奏したに過ぎない。『事前に用意していなければ出来ない』とする説はほとんどが近年の学者が述べている発言であり、当時秀吉や豊臣家と関係があった武士からは敵味方を問わず中国大返しを疑問視した発言や記録は出ていない。
「本能寺の変」を知った吉川元春は和睦を反古にして秀吉軍を攻撃する事を主張したが、小早川隆景らの反対によって取り止めになっている。一歩間違えば秀吉は毛利勢と明智勢の挟み撃ちにあった恐れが大であり、現に滝川一益のように本能寺の変が敵方に知られた事により大敗し領土を失った信長配下の武将も存在し、秀吉がこのような危険極まり無い事を、謀略としてあえて意図したとは考えにくい。
また、もし秀吉が光秀と共謀していたなら、山崎の合戦で光秀はそのことを黙って討たれたことになる。共謀が事実ならばそのことを公表することで秀吉は謀反の一味となり、他の織田旧臣や信孝ら織田一族との連合はほぼ不可能となる。光秀方にきわめて有利な情勢を作り出せるからである。
当時の武士から見ても不自然な状況であったり、連携を疑わせる
外貨預金
が流れていれば、後に秀吉と敵対した織田信雄・信孝・柴田勝家・徳川家康などがそれを主張しないのは不自然である。
死後、京都東山の阿弥陀ヶ峰(現在の豊国廟)に葬られ、豊国大明神として豊国神社(京都)に祀られたが、豊臣家滅亡後、徳川家康により大明神の号は剥奪された。この時、建物も破却されることになりかけたが、秀吉の正室であった高台院の嘆願により、外苑部分は破却されるが内苑(本殿など)は残されていた。この際に建造物の一部は片桐且元らによって宝厳寺や都久夫須麻神社等に移築されたともされる。その後三代将軍家光の時代幕府により社領も没収、社殿などは次々と破却、あるいは解体処分とされてしまい、豊国神社の敷地は荒れるがままであったと言う。明治になり日光東照宮の相殿に祀られ、豊国神社は再興された。
他、高野山奥の院に豊臣家墓所があるのは有名であるが、
IPO
する墓碑の中には秀吉のものはない。その理由は不明である(高野山戦国大名の墓)。
戒名 - 国泰裕松院殿霊山俊龍大居士
秀吉が主祭神として祀られている神社は、京都市以外には豐國神社(大阪市)、豊国神社(長浜市)、豊国神社(名古屋市)である。大阪市と長浜市はかつて秀吉が統治した町、名古屋市は秀吉の生地である。
石高(こくだか)とは、近世の日本において、土地の生産性を石という単位で表したもの。太閤検地以降、地租改正まで石高に応じた課税が行われた。そこから転じて大名や旗本の収入も示した。
太閤検地以後江戸時代を通じて、田畑や屋敷などの土地の価値に至るまで、面積に石盛という一定の計数をかけて米の生産力に換算して石単位で表示するようになった。このような制度を石高制と言い、米以外の農作物や海産物の生産量も、米の生産量に換算されて表された。大名をはじめとする武士の所領からの収入や俸禄を表す場合も石高を用いられた。特に領民の場合には「百姓高所持」、武士(特に大名)の場合には「石高知行制」と称されることがある。明治時代の地租改正まで続いた。
一石は大人一人が
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に食べる米の量に相当することから、これを兵士たちに与える報酬とみなせば、石高×年貢率と同じだけの兵士を養えることになる。つまり石高は戦国大名の財力だけではなく兵力をも意味していた。江戸時代の軍役令によると、大名は幕府の命に応じて表高1万石あたり概ね2百人程度の軍勢(非戦闘員を含む)を動員する義務を課せられていた。
これらは、あくまで幕府公称の数字(表高)であり、実際の収穫高である内高とは、かなりの乖離がある藩も多い。詳細は内高を参照のこと。
戦国時代(せんごくじだい、1493年(1467年)頃-1573年頃)は、1493年の明応の政変頃あるいは1467年の応仁の乱頃をその始期とし、1573年に15代室町将軍足利義昭が織田信長によって追放されて室町幕府が事実上消滅するまでの時代を指す日本の歴史の時代区分の一つ。室町時代の一部、あるいは信長上洛以後を織豊時代(安土桃山時代)と区分する事もある。幕府権力は著しく低下し、全国各地に戦国大名と呼ばれる勢力が出現し、ほぼ恒常的に相互間の戦闘を繰り返すとともに、領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めていった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。
戦国時代の始期には複数説がある。以前は1467年に始まった応仁の乱を戦国時代の始期とする見解が有力とされていたが、その後も幕府は中央政権として機能していた。中央政権としての幕府権力を支えていた幕府-守護体制に大きな動揺が見られ始めたのは1490年前後であり、明応の政変により中央政権としての幕府体制が瓦解した。このため、今日では政変の発生した1493年を戦国時代の始期とする説が有力となっている。
その終期にも複数の見解が並立している。織田信長が将軍足利義昭を追放した1573年が通説であるが、正確にはこれは室町時代の終焉、安土桃山時代の始まりである(さらに正確には、安土桃山時代の始期も複数の説が並立している)。上記の通り戦国時代は室町時代・安土桃山時代と重なる年代区分であり、信長が安土へ進出して「天下人」へと飛躍した1576年、豊臣秀吉が後北条氏を服属させ全国統一の軍事活動が終了した1590年を戦国時代の終期とする考えもある。
慢性的な紛争状態が続いた時代だが、必ずしも毎日が戦争状態にあったわけではない。室町幕府によって保証されていた古い権威が否定され始め、新興の実力者が新しい権力階級にのし上がり領国を統治していくこととなった。これを下克上という。様々な経歴の戦国大名が登場する。