■オルッサの宿マチャン・マチャン

それぞれの実力者同士の利害衝突に端を発する衝突が広く日本各地で行われた。そのような永続的な衝突を可能にしたほど経済が急速に質量ともに発達していき、それまでの無名の庶民が様々な形で成功を収めることができる経済成長期であったことが時代を支えていた。社会構造が急速かつ大幅に変質していき、従前の社会体制の荘園公領制を支えていた職の体系が崩壊し、それに伴って荘園公領制もこの時期にほぼ形骸化した。経済の急成長に伴い大量に発生した新興地主や新興商人が紛争の絶えない時代に開墾や内外の通商を通じて発展し、自らの実力に相応しい発言力を社会に対して要求した時代でもあった。(豊臣秀吉は「針売り」が出世の始めという伝説がある。) 「万人恐怖」と言われた政治を行った足利義教が嘉吉の変で死没すると、室町幕府の力は急速に衰えることとなった。例えば、関東では鎌倉公方が古河御所に逃れて古河公方と名乗って関東管領上杉氏との全面戦争(享徳の乱)を引き起こし、将軍が後任の鎌倉公方として派遣した足利政知も鎌倉にさえ入ることができなかった(堀越公方)。加賀でも大和でも豪族同士の争乱が起こり、将軍お膝元の京都でも徳政一揆が頻発する有様であった。 この最中に将軍の跡継ぎ争いが勃発し、これに山名氏・細川氏ら守護大名の塗装工事 争い・畠山氏・斯波氏の跡継ぎ争いなどが加わり応仁の乱が起こった。大内氏、若狭武田氏など各地の守護大名が上洛し、都を戦場にした争いが10年間続いた。この戦いは山名氏の衰微・大内ら西軍の京都撤退など細川氏が勝利した形で終わったが、はっきりとした勝利の結果は残らなかったため後々までに影響する。更に戦中、細川氏が山名氏領国を混乱させるため武将を送り込んだために争いの火種が各地でくすぶり続けた。 戦後も中央政権としての幕府の力は残っており、1487年の将軍に敵対する近江守護・六角高頼攻めには尾張・若狭など畿内近辺の諸大名が従い、1492年の足利義材の河内攻めにも多くの軍勢が馳せ参じている。この河内攻め最中の1493年4月に管領・細川政元が将軍廃立を行うクーデターである明応の政変に成功し、実権は細川氏に移った。将軍は各地の大名に身を寄せ頼る存在となった。細川氏も政元死後、晴元と高国と2派に分裂して混迷を深める。ここに中央政府の地方への求心力が失墜し、各地豪族は自ら力を蓄え、或いは力ある存在に身を寄せる法なき時代に入ったのである。この内、自ら力を蓄え自立した者を戦国大名という。 この明応の政変とは、いわば将軍である足利義材(足利義視の子)を追放し清晃を将軍としたことだったのだが、これに対して足利義材は政元の元を逃れて地方へと落ち延び、近畿諸国は足利義材派と足利義澄派(細川政元派)とわかれることとなった。専横を振るった細川政元も香西元長・薬師寺長忠らに暗殺され(1507年:永正の錯乱)、細川家もまた細川澄元、細川高国と2派に分かれて抗争することとなった(澄之は高国に討たれた)。この間隙を突いて1509年に周防の大内義興が前将軍・足利義尹(元の足利義材、後に足利義稙と再度改名)を奉じて上京した。高国は大内義興と組んで義尹を支持し、澄元は義澄を支持し対立。1511年に足利義澄が没すると、澄元方が劣勢となり、澄元は何度か京と四国を往復するが結果的には権力を奪えず1520年に阿波で没した。 以上で見たように政権掌握者はおせち 氏から細川氏に移り、続いて三好氏が政権を握った。細川氏は形式上は管領家であるから執政権が存在するが、細川氏内臣の三好氏にいたっては阿波撫養の豪族というだけで本来なら政権を執れるはずはないのだ。ここに足利室町幕府の無力化は明確となった。実際、この前後から私たちが俗に戦国大名と呼んで親しんでいる武田信玄、上杉謙信、北条氏康、大友宗麟、島津貴久などの華々しい活躍が始まり全国の戦国騒乱が本格化する。 三好長慶は近畿周辺を制圧した強大な軍事力をバックとして足利氏を追放する。しかし三好政権の正当性が弱かったために周辺豪族の反発を招き、結局4年で足利義輝に屈服することとなる。三好長慶の死後は三好政権が迷走、松永久秀・興福寺・浅井長政らの協力を取り付けた織田信長に簡単に京を明け渡す。(三好長慶から始まる三好政権について、「堺公方」を参照) 毛利元就による中国支配への契機となった厳島の戦いもこの時期である。 1568年、尾張国の織田信長が足利義昭を奉じて上洛したことにより、戦国時代の状況が一変する。信長は義昭の名で四方大名へ命令を発布、天下人への道を歩み始める。彼が入京して最初にしたことは大津・堺・山崎など商業都市を直轄地としたことである。また、イエズス会のルイス・フロイスに京都居住・布教を許している(1568年)など京都統治も行っている。 このころになると、信長の動きに関連して各地方も統一への道を歩み始める。北条氏、武田氏、予備校 、毛利氏などである。これらの全国の大名は信長派か反信長派に分かれて争うことになる。将軍の足利義昭が音頭を取り、比叡山、本願寺、武田信玄、上杉謙信、朝倉義景、浅井長政、松永久秀、三好三人衆、毛利輝元ら反信長派が結集して信長包囲網を築き上げたが各個撃破を受け崩壊、足利義昭は京都を追われた(幕府という形態はこの後、備後の鞆に細々と続く)。つづいて自らの利権を失うことを恐れた本願寺も信長に反発、全国の一向一揆を動員して10年間徹底的に抗戦した(石山合戦)。織田信長はこれらの敵対勢力をすべて撃ち破り、自らが本能寺の変で倒れる1582年までには日本中央部を制圧し、天下統一の寸前までを実質的に成し遂げた。 後継者である豊臣秀吉は惣無事令を発布して日本全土を名目的に統一、更には太閤検地、刀狩、身分統制令、貨幣統一を達成して、これまで各地ばらばらであった日本の全てを一つにまとめた。秀吉没後、徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利して、諸大名の有無を言わさず配置換えを行い、大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、徳川氏一統が日本の実質的支配者とすることを諸大名に徹底確認させた。一国一城令を行うことは「もう戦争はしません」という諸大名の意思表示でもあった。そして江戸時代中期、3代将軍徳川家光が死去した後、幕府の武断政治から文治政治への転換は武力による支配の終焉ともいえる。 戦国大名は、そのほとんどが守護大名・守護代・国人に出自する。国司(北畠氏)や公家(土佐一条氏)に出自する者もいた。まれに低身分から戦国大名となった者もおり、当時の風潮だった下克上の例とされることが多い。 戦国大名は、領国内に一元的な支配を及ぼした。この領国は高い独立性を有し、地域国家と呼びうる実態を持っていた。こうした戦国大名による地域国家内の支配体制を大名領国制という。ただし、戦国大名は、領国内において必ずしも超越的な存在ではなかった。戦国大名は、地域国家内の国人・被官層を家臣として組織化していったが、実のところ、この国人・被官層が戦国大名の権力基盤となっていた。戦国大名は、家臣である国人・被官層が結成した一揆関係に支えられて存立していたのであり、国人・被官層の権益を守る能力のない戦国大名はしばしば排除された 東北地方の戦国大名は鎌倉時代から代々土地を所有してきた由緒ある一族が、そのまま戦国大名化したものが多い。例外は若狭武田氏末裔を名乗る(実際は商人出身か?)蠣崎氏で、津軽海峡沿いの中小豪族を統一した。南部氏より独立した津軽氏もまた例外に含まれよう。ただ津軽為信は古くより津軽地方を領有して南部氏に謀殺された大浦氏の流れとも実は南部氏の出身ともされ、出自自体が曖昧である。 東北地方は関東の騒乱にほとんど巻き込まれることなく、当然中央の政争の影響もほとんど見られない。戦乱といえば、15世紀前半から南部氏が仙北・鹿角に出兵(この鹿角争奪戦は永禄頃まで続く)、伊達氏の河北地方への侵食など領地争いが目立つ。篠川公方や雫石御所も滅ぼされるなど、東北地方といえど、平穏無事ではなかった。また、1522年伊達稙宗が奥州探題・大崎氏らを差し置いて陸奥守護職に就くなど下克上の芽は見られる。 1542年には伊達稙宗父子が家督の位置付けを巡って争いを起こし、血縁関係にある奥羽諸大名を巻き込んだ大乱(天文の乱)へ発展した。この乱の過程で、晴宗は国人一揆との契約関係を再確認することで、他の奥羽諸大名に先駆けて戦国大名としての体制を確立することに成功した。 これ以降、家督の相続を巡って相克のあった蘆名・田村・岩城・最上・南部などの諸家では、国人一揆と大名の契約関係の一元化により戦国大名化を果たした。どの戦国大名も従来の大名に替わって室町幕府に「郡検断」「軍勢催促」「段銭徴収」等の諸権力を公認されることで各地域の中心勢力を形成し、そして新しい中央政権たる豊臣秀吉の奥州仕置によって既得権益を追認された。 16世紀第4四半期の時点で、湊安東氏が秋田、三戸南部氏が南部、奥州探題大崎氏が大崎、葛西氏が登米、羽州探題最上氏が最上村山、伊達氏が信夫伊達置賜刈田柴田宮城を、蘆名氏が会津耶麻大沼河沼西蒲原安積岩瀬、二本松氏(畠山氏)安達・石川氏・田村氏田村・白河結城氏白河南郷、相馬氏亘理相馬標葉・岩城氏が楢葉岩城岩前菊田多賀において安堵を実行した発給文書が残っている。 関東では京都で応仁の乱が起きる以前より、享徳の乱・長享の乱・永正の乱の3つの大乱が立て続けに起こっており、古河公方と関東管領山内上杉家・その庶流の扇谷上杉家が3つ巴になって覇権を争った。